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禁門の変(蛤御門の変)   

2011年 12月 26日

旅行地域


幕末の蛤御門地図・・・・当時の門は北向きにあった事が判る

京都御苑の周囲にある9門の一つ、天明の大火(1788年)の際に初めて開門されたこ とから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれている今でも御門の梁にはめり 込んだ鉄弾が残っている、起きるべくして起きた戦い1864年(元治元年)、尊王攘夷派 の勢力を取り戻そうと、長州藩は兵を率いて京都に向かい、御所の近くの蛤御門[はまぐ りごもん]付近で戦いになり。これが禁門の変[きんもんのへん](蛤御門の変[はまぐりご もんのへん])です。
 
幕府(会津.桑名藩)薩摩藩両者の戦闘があり,長州藩はこの戦いに敗れ、久坂玄瑞は鷹 司邸内で自刃した鷹司邸に火が放たれた。火は折からの北風にあおられて,南へ拡大。 晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は,たちまち火の海となった。堀川と鴨川の間, 一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされた。この戦いはわずか一日で終わった、 しかし戦火は三日に渡って燃え続け「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のよ うで,命からがら逃げおおせた人々も,山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりであ ったという。
小川通御池上ルにある六角牢獄にも火の手は迫ったが,この時幕府側は,破獄(池田屋事件)を企てた という理由をでっち上げて尊攘派志士33人を斬首た。
この大火により実に42,000軒の家が焼失し,難民が河原などに溢れた。こうした事態は、 支配層内の対立や薩長の天下支配欲によって引き起こされたものである。一部の人間 の私利私欲が京都の街を火の海と化したという,応仁の乱以来の悲しい歴史上の事実であった。

久坂玄瑞は、高杉晋作と共に『松下村塾の双璧』(もしくは竜虎)と称さた。
西郷隆盛は“今生きておったなら私などはこんな大きな顔をして政府の高官面はしておれ ない”と長州人に会う度言っていたという。
吉田松陰が、29歳久坂玄瑞25歳、高杉晋作28歳、彼らは、いずれも三十に満たずに亡くなっている、時代が動くときの出来事だろうか。

**天明の京都大火、(1788 年3月7日)御所焼失 町1,424・焼失 焼失家屋36,797(65,340世帯相当)・焼失寺院201・焼失神社37とされる。また、死者については150人説と1,800人説がある。壮麗な御所は建てられないとする幕府との間に摩擦が起こった尊号一件などの紛争

余談
「禁門(蛤御門)の変」駒札の説明文を修正に「御所の護衛に当たっていた会津・薩摩藩との間で激戦が行われました」と書かれていたが長州藩と交戦したのは会津、桑名両藩で、薩摩藩は別の門(乾門)からの応援部隊だった。
当時の桑名藩主・松平定敬は京都守護職だった松平容保の弟で、中心で幕府を支えた。会津ほどではないが、桑名は明治維新以降、賊軍という悲しい扱いを受けている。そういう歴史があったことを知ってもらいたい」と“復権”に期待を寄せた「三重県桑名市」

# by ryukaze | 2011-12-26 19:57 | 旅行地域 | Trackback

禁門の変(蛤御門の変)  

2011年 12月 24日

旅行・地域

進軍する長州兵と避難する京都の市民「甲子兵燹図」より・・・旗印に??

蛤御門の変(禁門の変)1864年8月20日(元治元年7月19日)長州藩と幕府軍の激戦であった被害の範囲を描いたかわら版が多く残され又各自が墨や朱色で記載している。


元治元年子七月十九日辰刻頃
河原町二条より出火仕少し鎮方相成
候所已刻より堺町丸太町辺より又候
出火仕候折節北東風つよく相成
丸太町通を寺町へ焼出革堂
残る夷川を河原町にて火留る西ハ
烏丸通を上長者町又下立売は
新町椹木町西洞院丸太町
東ほり川下ハ野原まて焼ぬけ
西堀川通別条なし並本国寺又
西本願寺御堂別条なし東本願寺
ハミなミな焼失不動堂にて火留る
又東は加茂川通り突抜寺町木や
町等ハことことく焼失併祇園
御旅道場ハ別条なく東辺も
同断依て東ハ河原町
上ハ下立売下ハ九条
西ハ堀川まて焼失仕候
凡家数
二万五千計
かまと数
四万七千計
土蔵落
千五百ケ所
神社仏閣


左上の書文       
元治元甲子年
七月十九日河原町
二条下ル 御屋敷
朝五ツ時出火四ツ時堺町
御門より焼出シ其より
四方江焼広かり東加茂川
北今出川南焼抜老若男女わか
ちなく東山あるいハ山しな北山辺へにげ
ゆき其そうどう筆紙ニいたしかたし
さが天龍寺山さき伏見出火廿二日火しず
まり

# by ryukaze | 2011-12-24 19:34 | 旅行地域 | Trackback

禁門の変(蛤御門の変)   

2011年 12月 23日


御門の変時公家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」、長州藩士、来島又兵衛がこの木の付近で討ち死にしたとも伝えられて居る、御所周辺には宮家や公家たちの屋敷が集められ、大小200もの屋敷がたったが、多くの公家達もやがて東京に移住した。

①長州藩家老、福原越後が伏見方面から御所
②真木和泉守、久坂玄瑞が、南西の大山崎から堺町御門
③西の嵯峨方面からは、家老国司信濃、来島又兵衛が蛤御門と中立売り御へ・・・長州軍兵力は、総力3000人
戦死者
[長州軍]・・・265名
[幕府軍]会津藩・・60名越前藩・・15名彦根藩・・9名薩摩藩・・8名桑名藩・・3名淀藩・・2名合計・・・97名


攘夷派の公家たちは排除され長州藩兵に守られの三条実美ら七卿落ちの図

「振りしく雨の絶え間なく 涙に袖の濡れ果てて これより海山、浅茅が原 」・・・・久坂玄瑞

# by ryukaze | 2011-12-23 14:19 | 旅行地域 | Trackback

蛤御門の変(禁門の変)  

2011年 12月 21日


蛤御門の変(元治元年7月19日)の直前まで、長州軍約500人(家老国司信濃、来島又兵衛)が屯営した嵯峨天龍寺に陣を敷き、血気にはやる兵士が柱に試し切りした跡がこの傷で多くの刀痕が残された。商家(山中油店)にも刀痕「逃亡する長州兵の刀傷」「暴挙」を残した。

逃亡する途中山中油店で刀痕を残し天龍寺へ仁和寺街道を西進し山陽街道を南下し大山崎で久坂玄瑞隊と合流

余談
薩摩藩は、長州軍を駐留させたとの理由で天龍寺に砲火を浴びせようとするが管長滴水禅師は、総門前の大砲に立ちはだかり、「全山を焼くならまず自分を打ち殺してからにせよ」と言う。
薩摩は、「それでは大義名分が立たない。ただ空砲のみを撃てばよい」と名分をつけるが、実際は、実弾を放ち全山ことごとく焼亡する。禅師は開山の木像を背負い付近の竹藪に難を避けた薩摩の砲火で天龍寺八度目の焼亡。「元天龍寺管長関牧翁著」

# by ryukaze | 2011-12-21 19:42 | 旅行地域 | Trackback

蛤御門の変(禁門の変)  

2011年 12月 20日

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門扉には銃弾の跡が鮮明に残っている今も見学者が触れて行く

# by ryukaze | 2011-12-20 22:27 | 旅行地域 | Trackback

蛤御門の変(禁門の変)1  

2011年 12月 18日


京都御苑の9門の一つ、天明の大火(1788年)の際に初めて開門されたこ とから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」・・・・禁門の変[きんもんのへん](蛤御門の変[はまぐりご もんのへん])1864年8月20日(元治元年7月1日)長州藩と幕府軍の激戦であった。

# by ryukaze | 2011-12-18 19:37 | 旅行地域 | Trackback

油小路七条の変(新選組)   

2011年 07月 29日

御陵衛士の墓所(元新選組隊士)「戒光寺御陵衛士墓所」正面左から毛内・伊東・藤堂・服部の墓碑


伊東と藤堂・服部・毛内の遺体はまとめて七条油小路辻に放置され、残党をおびきよせるために晒された。西本願寺侍臣や泉涌寺塔中戒光寺長老が埋葬させてほしいと頼んだが、聞き入れられなかった・・・。四遺体は数日間晒された後、新選組菩提寺の光縁寺に葬られた。彼らの遺体は、鳥羽伏見の戦いで新選組が退京した後、生き残りの衛士7名は騎乗、その他150人ばかりが野辺送りをしました。(泉涌寺の文書には7名が騎乗・葬儀には300人ほど集まったと記されているそうです)。その費用は新政府参与の役所から出された同志の手で戒光寺に改葬された。

泉涌寺は四条天皇以来14代の天皇陵・孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀陵墓がある境内の塔頭寺院(戒光寺)

[高台寺党と油小路の変]

新選組の中にあって、近藤勇・土方歳三派と伊東甲子太郎・山南敬助派に別れ、のちに幕府が新選組を幕臣に取り立てようとしたので伊東甲子太郎達は勤皇派であった為、別の組織を作ろうとしました慶応2年12月25日(1867年1月30日)孝明天皇が崩御し、伊東は朝廷より尊皇大儀のために孝明天皇の御陵を警備するという名目で禁裏御陵衛士を拝命し、高台寺の塔頭月真院に最後の屯所を置いたため、後世、「高台寺党」とも呼ばれました。
しかし慶応3年11月18日(1867年12月13日)伊東は酩酊して帰営中、待ち伏せの新選組隊士数名に襲われ七条油小路にて横死しました。享年32歳でした。
その後、伊東の死を聞いた御陵衛士は騒然となり、七条小路に彼の遺体を引き取りに来ますが、待ち伏せの新選組数十名に包囲され、藤堂平助・服部三郎兵衛・毛内監物の3名が討死しました。
『戒光寺』筆記より引用

# by ryukaze | 2011-07-29 20:11 | 旅行地域 | Trackback

油小路七条の変(新選組)   

2011年 07月 28日







新選組によって暗殺された伊東甲子太郎の屍は、絶命した本光寺から油小路七条へ運ばれて放置された。
新井忠雄、阿部十郎、内海次郎が不在(幸運?)でしたが、知らせを聞きつけ、伊東の遺骸を引き取りに来た遺体を駕籠に収容しようとし た鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納道之助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛、藤堂平 助の7人を新選組が包囲。激闘が行われました。鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納道之助、 富山弥兵衛、橋本皆助の5人は包囲を破り脱出しましたが、服部武雄、毛内有之助、藤堂 平助の3人は踏みとどまって討死しました。

「油小路で闘死した3名の衛士の遺体状況」

藤堂平助 油小路南西手に倒れおり候・・・傷は両足、横腹2ヶ所、面上鼻より口へかけ深さ2寸ほど、長さ7寸ばかり。刀を握り候まま果ており候。
近藤らと上京し、斎藤一と並んで新選組最年少幹部となりました。当初は近藤の「四天王」に数えられた、旧友達(永倉・斎藤)は剣を交える事を避けたが、子母澤寛の『新選組始末記』

毛内監物 油小路通七条少し上ル東側に倒れおり候・・傷は書き尽しがたし。五体離れ離れに相なり、実に目もあてられぬさまに御座候。かたわらに刀の折れ候ままこれ捨ておかれあり、脇差を握り候まま果ており候。

服部三郎兵衛(武雄) 同所辻北東手に倒れおり候・・傷は背中数ヶ所。これは倒れた候ところを散々に斬りつけ候おもむきにて、傷の数分からず(数えきれず?)。うつむけに倒れおり候を翌日あおむけ候ところ、腕先・三ヶ所、股足・四~五ヶ所、かかと一ヶ所、胴腹一ヶ所。流血おびただしき。
(『鳥取藩慶応丁卯筆記』より作成)

事件当時(旧暦の18日)は、月明かりで家屋の二階から手に取るように見えたという、多くの目撃者(町人)は「散々に斬り合っていたが、八人のうち負傷した二人を三人で介抱しながら逃げ去り、後に三人が踏みとどまった。中に両刀使いの者がいて、襲撃者(新撰組)の方が八、九人も手負いとなったが、遂には刀が折れたところへ総掛りで斃した。」とあるが、両刀使いの者が服部武雄である。


# by ryukaze | 2011-07-28 20:07 | 旅行地域 | Trackback

油小路七条の変(新選組)  

2011年 07月 27日



伊東は醒ヶ井木津屋橋の近藤の妾宅に招かれ、ほろ酔い加減で帰る夜道を隊士に斬られた この場所で刺殺しされた。「伊東甲子太郎が、瀕死の重傷を負いながら、新撰組の追っ手から逃れてきて、本光寺の門前に有った門派石にもたれかかって、『王事に尽くさんが為に投げ出した命なれど、もはや命運尽きたるは残念至極。 新選賊!』と、言って絶命した。
慶応三年(1867)十一月十八日・享年32歳又三日前に坂本竜馬(32歳)が近江屋で刺客に襲われ絶命この知らせを聞いた伊藤一派は、直ちに駆け付けたが、待ち伏 せしていた新撰組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られた・・・世にこれを「油小路七条の変 」新選組が京を去る一ヶ月 半前の出来事。

# by ryukaze | 2011-07-27 18:15 | 旅行地域 | Trackback

本願寺・太鼓楼  

2011年 06月 23日



新選組は、池田屋騒動(1864年)以降隊士が増え、壬生の屯所では狭くなった事もあり、翌年屯所を 壬生から西本願寺に移し、境内に新選組本陣の看板を揚げ北東にあった北集会所(現在の参拝会 館)と太鼓楼を使用。
本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊皇攘夷運動のなかで幕府と対立していた長州藩士達が 何かにつけて本願寺を頼りにしていたため、新選組は本願寺の中に本拠を移すことによって一石二 鳥の効果をねらった。
新選組は、境内で大砲の空砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、乱暴を繰り返したため参拝 の門信徒や僧侶らを震撼させる日々が続いた、何だかの圧力で南約1キロの地(不動堂村)に最後 の屯所を置く、坂本竜馬暗殺の3日後に”油小路の変”近藤は同志の離脱に困り果て参謀伊東(北辰 一刀流)を自分の妾宅に呼び出して酔わせ暗殺他に同志3名死・・・・・・旧来より時を報せたり、法要 の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築である。
結成時からの元隊士(島田魁)が明治維新後、本願寺の守衛を勤め、終生同士の供養のお念仏を喜 びなが番ら新選組隊員の生涯供養し太鼓番をしたという話が伝わっております明治33年3月20日73歳で死。「島田魁日記」新選組研究資料を残した、

京都では長州よりも新選組の方が人気が有る何故かと言えば 長州は”蛤御門(禁門)の変”で京都大火被害(人口37万人江戸は約倍)は、町数118、家屋42000、土蔵1500、寺社塔頭480、武家屋敷 600に及んだ。新選組よりも火を放った長州藩に怒りを隠せ無かった。

# by ryukaze | 2011-06-23 20:09 | 京都 | Trackback

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